2009年11月 6日 (金)

昔、むかしのひな祭りの思い出

私が生まれたころ、皇族の照宮様がお生まれになりましたので、私の初節句の時、母の実家の祖母が京都の人形屋さんに頼んで宮様と同じひな人形を祝ってくれましたそうです。
とてもr立派な豪華なお雛様でした。お内裏様お二人は御殿の中、三人官女はまえの階段の上、五人囃子は渡り
廊下の前庭、そしてお道具には私の家の家紋が入っていました。長持ちの上に飾ったお布団にも、家紋が染められていました。お針箱、化粧箱、碁石や碁盤も家紋入りの塗りで揃えられていました。昔のお籠もありました。
そして、雛段の横に昔風の台所があり、井戸には釣瓶がついていて、水を汲むまねをして遊んだ思い出も残って
います。すりこぎ、すり鉢、お椀、お鍋などもあってままごと遊びに使いたいと言って母に叱られた事もありました。
関西は旧暦なので、4月3日には、お店の番頭さんの奥さん達を招いて、少し小さい塗りの御膳にハマグリのお吸い物や決まったご馳走を盛ってだしていたのを、おぼろげながら覚えています。
私たちのお祝いはその日の夕飯の時、混ぜ寿司やハマグリのお吸い物がならんで、いたことも記憶しています。
ある時小学校に行っていましたころ、学校の先生が、学校のおひな祭りに私宅のお雛様を貸してほしいと言われ、
うちまで頼みに来られましたが、祖母がうちのお雛様は母がかかりっきりでないと組み立てられないので、ご遠慮
させて頂きたいとお断りしたと云うエピソードもありました。
3月17日の神戸大空襲の時、お雛様のしまってあった小さい方のお倉もすっかり焼けてしまって、今は私と妹と
女中のかやさんの胸の中に残っているだけになりました。三人が寄ると懐かしくお雛様の話をしたものでしたが、
それも、私が遠くにきて、しまって叶わぬ夢となってしまいました。
写真もアルバムは皆、疎開するつもりで用意していましたが、間に合わなくて一夜で灰になってしまいました。
大切な思い出の品々も何もかも、一夜で奪ってしまう戦争は決して二度としてはならないと、お雛様の思い出と
ともに強く強く思いました。

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2009年10月30日 (金)

果物の種の思い出

亡くなった主人は果物が好きで、毎食後に頂いていました。ある時美味しい柿を頂いて、食後に食べた後、きれいな
種を見て、これを植えたら美味しい実がなるかもと言い、裏庭に植えました。ふと気がつくと芽が出ていました。
水を欠かさないようにだけ気をつけていましたら、何年後だったでしょうか?立派な木になりました。
また2,3年たって今度は待望の実がなりました。近くに住んでいました義妹を呼んで三人で試食会をすることに
しました。三人一緒に口に入れ、同時に「苦い」と吐き出しました。渋柿だったのです。あんなに甘い美味しい柿
だったのにと不思議に思いましたが、そういう物だとわかって、私が皮を剥いて干し柿にしました。
それはとても甘くて美味しく皆で喜んで頂きました。その後、マスカットを食べた後にもその種を植えましたら、やはり
大きな木になって、ブドウの房がいくつも下がっていたときは主人とともに歓声をあげました。マスカットほどの美味しさはありませんでしたが、先ずまず、頂くことが出来ました。
サクランボの木は見る見るうちに、大きくなって、主人の亡くなる前の年にやっと実がなりました。少しでしたが、主人も喜んで5,6粒頂きました。次の年からは、とてもたくさん実がなって、お仏壇に供えることになりました。
毎年、たくさんのサクランボがなって、粒は小さいのですが、先ずまず美味しくて、義妹達や、お稽古に来られる方々
にもらっていただいていました。木が大きいので脚立からは届かず、二階の窓から屋根に出てとるようになりました。
義妹たちからは、危ないから、やめるようにと、再三言われ、引越しの2,3年まえからは、植木屋さんに頼んで、
とってもらっていました。サクランボはいつも仏前に供えて主人に報告していました。柿は台風の時、倒れて根元から
折れてしまい、ブドウは隣の駐車場まで伸びて邪魔になるからと刈ってしまわれました。
楽しみにしていたサクランボも家とともになくなり、私の思い出の中でのみ、生き族けています。

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2009年10月23日 (金)

敬語を使うこと

私達昔に育った者は敬語をよく使います。夫婦の間でも、私は主人に対しては必ず敬語で話していました。
「ご飯を召し上がりますか?」とか、お風呂に入りはりますか?と関西弁を使ったりして、敬語で話していました。
少し若い人達は友達のような話ぶりで、食事にする?とかお風呂にはいる?と言って平気で話あっているのを聞いて、「敬語を使わないの?」と言えば、そんなの他人行儀じゃない、よそよそしくて」と言われてしまいました。なるほどとは思いますが、私にはやはり、敬語でしか話せませんでした。
主人はテレビを見ていて皇室の方のことに敬語を使わない人があると、アナウンサーのくせにそんなこともわからないのかと怒っていました。私でも聞きつらいような言い方をする人もありましたが、若い人達に敬語を求めるのは、
非常識なのでしょうか?もちろん他人に主人のことを話すときは敬語はつかいませんが、反対に、身内のことに
敬語を使う人もいて、これもとても聞きつらいことです。近頃は、ご自分で飼っているペットにまで敬語を使う人が
多いのには驚いています。ご自分とペットの間でだけにしてほしいと思うのは酷でしょうか?
最近日本語が乱れているとよく言われますが、昔人間の私たちが気にかかる言葉をあげればきりがないという位
です。日本の古い言葉には素晴らしいものが多いのです。私たちが古文を暗記したように、古文などを読んで、
素敵な日本語を少しでも取り戻してほしいと願っています。

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2009年10月18日 (日)

着物は日本の民族衣装です。

神戸にいた頃のことです。朝早く家の前の道を掃除していましたら、すぐ後ろに人の気配を感じて振り向きました。
中年のおきれいな御婦人が立っていらっしゃいました。「ごめんなさい、私の亡くなった母の姿をおもいだしまして。」
と言って涙ぐんでいらっしゃったのです。今頃、着物に割烹着姿の人を見かけることがないので、奥さんを見て思わず
母を思い涙がこぼれました、とのことでした。私はもう30年位になりますでしょうか、1年中着物をきて過ごしています。私の母も姑も着物が好きで、たくさん持っていましたが、亡くなった時に姉妹で当分しました着物を妹、義妹が、
みんな着ないからと言って私に来てほしいと持ってきてくれまして、着物好きの私は喜んで着せてもらう事にしました。始めは供養になればと思ってきていましたが、今では365日着させてもらって暮らしています。その後もよく声を
かけていただくようになりました。「毎日お着物ですか?」とか「あさ、早くからきちぃんとお着物を着てるのですか?」など。着物の御蔭で人様にはよく覚えて頂けます、お店の方にも「着物の奥さん」と言われましたりマンションのころ、エレベーターの中で毎日着物なんて信じられない、と言われましたり、九州の時には、お稽古でご一緒の方が
突然、訪ねて来られて「やっぱり本当だったのね、毎日着物なんて、家では洋服だと思って突然にきてみたの」とおっしゃる方がありました。
神戸では住吉川のほとりを毎朝歩いていましたので、着物の人と呼ばれて皆さまが覚えて下さったようでした。
母がずっと着物でしたから母を思いだします、と言って下さる方も何人もありました。
先日、サファリーパークは行った時は売店の方が「母にそっくり。亡くなった母が来てくれたのかとびっくりしました。」とおっしゃって手を握って下さいました。そしてある方は「着物を着る人がなくなりましたね。着物は日本の民俗衣装
なのにね。」と言って握手をして下さったりもしました。
一昔前までは、皆着物を着て家事もこなしていたのですから、私は何の不自由も感じないで着物で毎日暮らしています。慣れれば着替えも5,6分でできますし、窮屈でもなく、働き難いこともありませんし、却って姿勢が良くなり、
行儀悪く出来なくなります。私も着物を着たいのだけど、とおっしゃる方に慣れることがいちばんです、とお答しています。クラス会に出ても大抵は私一人が着物です。殊に夏は着物姿をほとんど見かけません。
目立つことがいやなので、着物をやめようか?と考えたりしたこともありましたが、着物は日本の民俗衣装なんです、と大きい顔で、これからも着ていたいと思っています。


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きもの

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2009年10月13日 (火)

継続すると言うこと

続けると言う事は難しいとい言いますが、私でも続けていることが、幾つかあります。
私が女子大のころは戦時中で、今言えばうそのようなことと、思うでしょうが、夜寝る時もすっかり脱いで着替えをせずにいる人が多く、寮監先生から、寝る前には必らず乾布摩擦をするようにと、お主婦様をしていた私にご命令がありました。消灯の前にみんなに声をかけて、「乾布摩擦を致しましょう」と叫んでいました。その時以来、私は着替え
の度に乾布摩擦を続けています。皮膚をt傷めるから良くないと言われたりしますが、私はとても快く風邪もひかなくなりました。
学校で日記をつけるようにといわれ、翌日提出した頃は書いていましたが、どうしても続けられませんでした。
ところが、結婚してからは主人が毎日書いていますので、私も続けられるようになり、60年近くなった今も毎日書いています。そして、主人が日記を毛筆でしたためていましたので、私は日記はペンの走り書きでしたが、手紙を書いたり、習字をしたり、必ず1日1度は筆を持つことに決めました。今も続けています。主人とともに始めた事は毎晩
御仏壇に手を掌せて般若心経を唱える事でした。一人になっても続けています。
早朝散歩と主人の月命日にお墓参りをすることは一人になって始めたことですが欠かさずに続けている事の一つです。
こうして振り返ってみますと、私も続けている事が色々あるものだ、と自己満足した次第です。このくらいの事は
誰にでもあることだと思いますが、死ぬ時までは頑張って続けて行きたいと念じています。

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2009年10月10日 (土)

子供のころの思い出

小学生のころ、私は何でも一番になりたくて、勉強もよくしていました。おかげでそのころ、10点満点の通知簿でしたが、全部10点の事がよくありました。二年生くらいまでは、先生がきめられた級長にして頂き、以後は選挙ででも、
選んで頂いて級長や副級長をさせて頂いていました。成績も、試験の度に100点がとりたくて、今日の試験は間違ってしまったから、100点が取れないと泣いていたことが、ありました。
その時、父が、「お父さんは1番なんかになったことはない。いつも中の上位だった。その方が1番になるよりもっと
難しいぞ。」と言ってなだめてくれました。一高、東大を出て、私が尊敬している父に言われては、とても、心に響き
ました。そして、100点だけを目指すのではなくて、ただ、真面目によく勉強をするようになりました。
6年生の時には、6科目全部100点を取った事もありました。
子供のころは、目上の人の言葉に左右され、良い子になることも多いといいます。

私は父のその言葉で目が覚めたような気がしています。母からは、良く点とり虫になってはいけないと注意されていましたのに、あまり何度も言われるので、心には、残っていなかったのでしょう。
母からのことばでは、「足るを知る」と言う事を、よく諭されました。おねだりなど、した時にはしてもらえない人のあることを考えなさいとよく言われました。そして、わがままだった私に、女子大の寄宿舎に入って修業してこなければ、
御嫁にも行けないよと、親元を離されましたのも、母の愛情たっぷりの事だったと、今更ながら身にしみています。
こうしてこの年まで、人様に迷惑をかけることもなく、生きて来られましたのも、両親の、おかげ、と感謝しています。

両親だけではなく、お世話になったり、教えて頂いたり、回りにいて見守って下さった大勢の方々の御蔭で今日の
私があるのだと言うことを、しみじみと感じた一日でした。


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2009年10月 5日 (月)

てるてる坊主の事

明日が運動会と言うのに、雨の日が続いて、明日の予報も雨と言うことでした。
ママがテルテル坊主を作ろうと言いだしまして、私は白い晒を四角に切って用意しました。孫が5つ作りたいと言いますので、5枚切って用意しましたら、ママが頭に入れる丸い綿を用意してくれていました。孫とママとで首の部分を
紐でくくって出来ました。紐を着る時に孫が、誤ってママの指を切ってしまい、血をとめたり、バンドエイトをまいたり、
の騒ぎもありましたが、テルテル坊主の顔をパパ、ママ、孫、私がそれぞれ書いてもう一つは猫ちゃんたちの分よ
とママが書いてくれました。
翌朝、誰よりも早く起きました私は空を見てびっくり、ところどころ雲が切れて青空が見えているではありませんか。思わずテルテル坊主さん有難うと手を合わせました。
パパ、ママ、孫と起きて来てお天気を喜び合いました。
楽しい楽しい運動会が始まりました。保護者の方々は皆それぞれにカメラを持ちわが子の晴れ姿をおさめようと、
頑張っていらっしゃいましたが、途中から雲行きがあやしくなって、とうとう降りだしてしまいました。
室内の広いお部屋で1競技をすませ、小降りの中で大きい組の方たちの素晴らしい演技も見せて頂きました。
一時雨がやんでまた競技が続けられましたが、再度激しく降り始めたところでお開きとなりました。御褒美のもの
を色々頂いて孫たちは結構楽しかった様子で、親も喜んで帰途につきました。
晩になって、テルテル坊主さんに、有難うと言い、本当は銀の鈴をあげるのだけど、途中で雨になったりしたのだから
有難うだけよ、と言うことで納得してもらいました。
ふと昔、私が小学生のころ、テルテル坊主を作ってお願いしたのに聞いてもらえなくて、大事な旅行が駄目になり、
泣きべそをかいたことを思いだしました。あの時のテルテル坊主さんは布ではなくて紙で作ったものでしたから、
御利益がなかったのかもと納得した日になりました。
晒で作った今回のテルテル坊主さんは私のタンスの中で箱に入って寝んでもらっています。

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2009年9月29日 (火)

鎌倉への旅

神戸から鎌倉へ、青春18きっぷで行くことになりました。夜行のムーンライトながらの座席指定を取って、大垣から
眠って行くことにしました。昼間にはそれぞれ買い物に出かけたりして、青春切符も利用し、晩の8時すぎに芦屋の
駅で待ち合わせ大垣からムーンライトに乗り込みました。若い人でいっぱいに車内に驚きましたが、二人が隣同志
に座れましたので、のんびりと行くことが出来ました。名古屋の手前くらいで24時を過ぎるとキップの翌日分に印を
もらわねばなりませんので、私もそれまでは起きていましたがそれが済むとすぐに眠ってしまいました。若いお弟子
さんは中々眠れなかったようですが・・・私が目を覚ましたのは、大礒を過ぎてもうすぐ横浜に着きますとアナウンス
された時でした。東京まで行って5時前でしたので洗面所で身なりを整えてから皇居の周りを散策しました。
5時半ころになって、お店も少し開きはじめましたので、朝食を買って鎌倉行きの車内で頂きました。
鎌倉では、観光バスの予約をしていましたので、江ノ電に乗って江ノ島へ。時間がありましたので、藤沢まで行ってみて江ノ島へ戻りました。バスは私たち二人だけ、大きなバスを動かして頂くのが申し訳ないようでしたが、仕事です
からお一人でも行きますよと言って下さいました。夏は海への客が多くて、観光する人は少ないとの事。
途中でもう一人乗って来られましたが、ゆったりとした旅が出来ました。ガイドさんは少しの客でも、きちんと説明を
して下さって、おかげで本当にいい旅行になりました。
長谷観音、大仏、鎌倉宮、八幡宮、長慶寺と主だったところはバスで連れて行ってもらい、バスにお別れしてから、
円覚寺に御参りして、お昼を頂きました。
北鎌倉から電車で鎌倉へ戻り、小町通りを散策。かき氷を頂いて元気をつけ、お土産ものなど買って東京へ。
浜松町近くのホテルを予約していましたので、部屋で一休みしてから、夕飯に出かけ、品川も、若い人が知っている
御店で、頂き、銀座まで行って、少し銀ブラをしました。千疋屋で彼女のあこがれのピーチパフェを頂いて、少し歩き
ゆりかもめでホテルの近くまで行き部屋でくつろぎました。
翌朝は私は例によって、早起きなので、一人で散歩にでました。
翌日は熱海へ。МOA美術館に行きましたが、前に主人と来た時よりも展示室も増えてゆっくりと楽しく拝観しました。熱海駅の近くで「足湯」があり、彼女だけ浸かって、海鮮丼を昼食にたべて、また、車中の人となりました。
名古屋で下車、名物の「ひつまぶし」を駅ビル内で頂いて帰途に着きました。
この時も、若い彼女のおかげで、普通車ばかりの旅も出来、主人の写真も同行出来て、私にとっては最高の旅行に
なりましたので、感謝でいっぱいです。
鎌倉は初めてと言っていた彼女にも、心に残る旅になってくれればと念じています。

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2009年9月25日 (金)

もとの女中さんの事

二男が生まれる頃、姑が私の身体を気遣って女中さんを雇って下さいました。紀州田辺の若い子でした。
ようこさんと云う名前だったと記憶していますが、通称「よこさん」と呼んでいました。二人の男の子ですから、
大変だろうと姑は案じて下さったのでしょう。お嫁入り前の子で、行儀見習いもさせてほしいからと言うことで、
うちで働いてくれる事になりました。
長男を遊ばせてくれましたり、義母の手伝いをしてよく役に立つ子だと、義母も喜んでいました。
長男が、トイレの時はお母ちゃんでないとダメと言うので、度重なると[勝手にしなさい」と怒っていましたっけ。
私はお産のその日から、長男のトイレだけはさせていたと思いだしました。
私がまだ出かけられない時、長男を連れて宝塚の遊園地に行くのに主人と一緒に連れて行ってくれたことも
ありました。トイレ以外は長男もよこさんによくなついて、可愛がってもらっていました。
1年と少したった頃、お嫁に行くために暇をとらせて欲しいと言われた時は義母も私も残念でなりませんでした。
代わりに妹を紹介してくれて、ほっとしたことでした。妹もいい子でよくしてくれましたが、1年足らずでしたので、
印象は少なかったようです。
「よこさん」は帰ってすぐに結婚、それでも年賀状は毎年くれていました。
15、6年もたって、私たち夫婦で那智の滝に旅行しました時には、田辺駅まで、娘さん、孫さんまで連れて
会いに来てくれました。すっかり落ち着いた「おばあちゃん」になっていて、幸せそうな様子に主人も私も本当に
嬉しく思いました。そして、また、何年かたって、主人の個展を開きました時には、はるばる紀州から、見に来て
くれまして、またまた、再開を喜びました。田辺駅で会った時は赤ちゃんだった孫さんも大きくなって、一緒に見て
歩いてくれました。
昔、昔、の少しのご縁なのにこうしていつまでも、懐かしがって会ってくれますことは、私たちにもかけがえのない
貴重な友人です。主人が亡くなりました時は、もう一度お会いしたかったのに、おうかがいすればよかった、と
嘆いてくれました。たった1年のお付き合いでしたのに、こうして何時までも心の通じる友人でいられます事、
本当に有り難く感謝しています。

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